庇護雑記

フィクションだから。

せんせいのこと


受験生の頃、某大手塾に通ってた。
英語も日本史も古典もすごく面白くてどの先生の授業も感動を覚えるほど分かりやすくて、塾に通うのがすごく楽しかった。
その中でも私が一番好きだったのは木曜19時半からの現代文の授業だった。
現代文のその先生は首都圏で絶大なる人気を誇っていた。華奢な割りにすごく背が高く、白髪混じりのメガネ。たぶん40歳くらい。色が白くて独特で不思議な雰囲気をまとった人で、上京して十数年経つそうだがコテコテの京都弁を使っていた。
その先生の落ち着いた声と上品な京言葉で展開される授業がすごく好きだった。
関西人に面白さを求めるな、とよく言われるが、京都出身である先生はめちゃくちゃ面白い。勢いとノリで無理矢理笑わせてくるやつじゃなくて、あくまでも淡々と生徒の笑いどころを確実に突いてくる。あの独特な面白さは関東出身の人間には真似できないものだと思ってる。そんな先生は真夏の暑い日でも、長袖を着ていた。扇子で仰いでいるところは何度も見たが、腕まくりをしているところは一度も見たことがない。

授業はいつも高校の友達と3人で先生の前から4列目くらいで受けてた。先生の話に私たちが笑いすぎるものだから、先生は100人近く生徒がいるにも関わらず私たちのことを認知してくれていた。私は制限時間よりも早く問題を解いていたから前を向いて解説の時間を待っていると、先生が目を合わせて優しく笑ってくれる。他の生徒よりも少しだけ近付けた気がして嬉しかった。
先生には持病があって、一度授業中に救急車で運ばれたことがある。噂で病名を聞いた。当時診断されていた私のものと同じものだった。
講師室に質問に行った時、恐る恐る「私◯◯なんです」と言うと、先生は一瞬驚いた顔をして、それから「まだあなたは高校生なのに、」と言って手を握ってくれた。すごく温かくて大きな手だった。

受験目前の冬期講習の最終講、「街の片隅の寓話」というタイトルで授業プリントの裏に物語が書かれていた。裕福ながらも冷え切った家庭で育った少年と、幼くして父親が蒸発した少女が14歳で出逢い、大切な時間を過ごすというもの。少年にとって少女との時間は人生で初めて人の温かさに触れたかけがえのない時間であったという。
少女と同じ時間を求めて地元の国立大学に進学し、家を出てひとつ屋根の下、2人で暮らし始めるも、突然少女は20歳で自ら命を絶ってしまう。少女は6年間を共にした少年に身をあずけることなく、子供の頃に家族で遊びに行った思い出のある公園の桜の木にかけたロープに身をあずけて旅立ってしまった。少年は、真に無意味な人間であったということを突きつけられながらも、絶望の中握りしめた決意と覚悟が彼を立ち歩かせてゆく、という話。


絶対に、先生のことだと思った。
先生は普段から自虐ネタが多かった。他の生徒よりもほんの少しだけ近くにいた私は、先生の口から出る「皆さんも薄々感じていらっしゃると思いますが、私は生きる価値のない人間ですから」という言葉にいつもどこか引っかかりを感じていた。先生と目が合った時のあの優しい微笑みと温かい手の感触を思い出すと苦しくてたまらなくて、まだ講師室にいるであろう先生のもとへ駆けつけて、先生の手を握り返しに行きたいと思った。生きる価値がないだなんて、私は思ってないです、って言いたかった。所詮18歳の、一生徒の私に先生を救うことなんて不可能に決まってるのに。でも手を差し伸べてあげたかった。こんな細い腕ではなんにもできないけど。自分の姿とだぶるところがあったからかもしれない。先生を撃ち抜いていった心の穴など埋められるわけがないのに。
そのプリントは帰りの電車でも読み返して泣いた。ちなみに今でも大切に保管してたまに読んでる。

塾のパンフレットの講師紹介のページ、それぞれの写真の下に自己紹介文が書かれていたが、先生の欄は確か「苦く切ない青春でした。生まれ変わる好機でした。逆境の中で握り締めたものが僕を支え、刻まれた想いが僕を歩ませました。」だったと思う。自分こういう記憶力だけは確かなんだ。
他の先生が、「君の将来はこの一年にかかっている。僕は全力でサポートしよう。」みたいなことを書いている中先生だけが異質で、私はそれを見た瞬間から先生に興味が湧いていた。だから先生の講義を選んだ。からの、去り際の独白。

紹介文は伏線で、全てが盛大な物語であったのならそれでいい。先生は偽名を使っていた。全てが演技で、完璧に作られたキャラクターであったのならそれでいい。でもどうしても、そうは思えなかった。
先生に対する私の感情は、尊敬から派生したものなのか全く別のものだったのか自分でも全くわからない。でも大学3年になった今でもふとした瞬間に思い出す。
先生、元気かなって。
お元気だといいな。あと少しだけ、苦しみから解放されていたらいいな。
先生は私のことなんてもう忘れてしまっただろうけど、私は一生忘れないと思う。

せんせいのはなし。