庇護雑記

嘘たち

混雑

 

物語は一般的にハッピーエンドが好まれる。多くのフィクションにはハッピーエンドが用意されている。主人公に選ばれた人は様々な困難を乗り越え、ゴールのハッピーエンドを手にする。そして感動的な音楽とともにエンドロールが流れる。万人が納得、満足する結末。ぬるま湯みたいなハッピーエンド。そんなぬるま湯のために、冷水を浴び犠牲になる人々がいる。

物語には脇役がつきものだ。主人公の座を与えられなかった人々は自動的に脇役となり、彼らの多くは意に添わない悲劇的な結末を受け入れることを強いられる。そして脇役たちは痛い辛い結末を拒否することは出来ない。なぜならそれが、主人公がハッピーエンドになるための絶対条件であり物語を完結させるための必要条件であるからだ。幸せになる人がいる一方で必ず不幸な人が生まれる。窓を開ければ一握りの幸せと、それを支える大多数の不幸で成り立っている

私がどちらかだなんて、言うまでもない

 

ハッピーエンドが苦手だった。作り物、虚飾感、嘘偽りの香り。上澄みだけを掬ってきれいだね、きれいだねって言って、それを生成するために存在していたはずなのに今ガラス瓶の下に沈殿しているあの塊は一体何のために、そんな声すらも届かずに捨てられる、燃やされる灰になる

全人類が幸せになるなんてそんなことは空と海がひっくり返ろうが絶対に起こりえないことだ。夢物語、絵空事。主人公に撃ち殺された悪に手を染めた奴ら、彼らがなぜその手を悪に浸さなければならなかったのかだなんて描かれることはない。誰も興味がないからだ。傍観者たちは主人公が幸せになれば、それだけで十分、身体の3箇所を撃ち抜かれて血を吐いて死んだやつのことなんて、興味がないのだ。興味がない、それだけで切り捨てられたものが山のように積み重なっていく

積み重ねていった私、積み重ねられていった私、自分だってわかってる、そして見えてる、今私の手に握られてるものが何なのかくらい。カミソリなのかキャンディなのかスパナなのかチョコレートなのか

両手いっぱいに相反するものを抱えて私はこれからどこにいく?一歩歩くとボロボロこぼれていくピンク黄色水色白黄緑オレンジ

煙みたいに消えてく私の存在を示せるのはこのこぼれたキャンディ全然甘くないキャンディ

拾って口に詰め込んだならば喉を詰まらせて息が苦しくなる

ぶっ倒れてねえ助けてって そんな風にしか生きられなかった私

転がってくる赤い飴玉毒々しい色をした飴玉 舌を痺れさせ目の前が遠くなっていく

あれは飴なんかじゃない、毒だ

だけどずっとそれが欲しかったんでしょ