庇護雑記

嘘たち

賢人の生き方

 

に学ぼうと考えた結果、人と不必要に馴れ合うのは一切やめようという結論に至った。

紆余曲折あり最近誕生した新しい推し(便宜上推しとする)は、人に深入りせず深く興味も持たず、淡々と「善人」というポジションについている。「善人」に徹している推しは、周囲の人々からは優しいだの誠実だの温和だの、その評価は軒並み高いように思える。

ただ本人は自分のことを結構冷たいとかドライだなんて言ってる。いやいや〜そんなことないでしょう〜〜なんて言われてるのを見たけれども、わたしも推しのことは冷たい人だと思った。けれども最近はなんて賢い生き方をしている人だろうと思うようになった。

そもそも生きている上で生まれる悩みの8割くらいが人間関係のもつれによるではないか?と思う。少なくともわたしの場合は大体がそうだったような気がする。ならば完全にわたしにまつわる人間関係のすべてを断ち切ってしまえば悩みからは解放されるのか??といえばそれはそうでもないのが難しいところであって

わたしはきっと他人に対する期待値が高い。〜であるべき、〜すべきではない、という正論を突き通すのが大好きで、正しい行いというものを当然の如く他人にも求めてきたと思う。だってそれがこの世界では正しいことだから。

でもそれは間違いだったと今では思う。たとえどんなに正しいことを要求したとて、人間には感情というものがあるから状況によって正しいことなんて容易く形を変えてしまうからだ。わたしの正しいことだって、わたしの感情によって多少なりともぐにゃりと曲がっているところがあったかもしれない。

人に期待するのはやめよう、と思った。人生には諦めが肝心だ。諦めを重ねて、許せないのハードルを下げて下げて下げまくった先に穏やかな人格があるのかもしれない。冷たいなぁと思った推しだって、もしかしたら若い頃はわたしのように他人に振り回されたり毒物を注射されてのたうちまわった挙句にいまのスタンスに落ち着いたのかもしれない。人と自分は違うのだから、分かり合えない部分があって当たり前だ。わからせようなんて思う時点でそれはもう驕りなのだ。

わたしも推しみたいに賢くなりたい。誰にも振り回されずに生きてるのカッコいい。これはただの偶然だが、推しの名前には「賢」という字が入っている。名は体を表すを体現しやがって...

推しから学ぶことがあるというのは嬉しい。推し甲斐がありすぎる。好きです推し。だからまずは、推しに対して期待をすることからやめなければならない。あなたはあなたのまま、何事にもぶれずにそのまま真っ直ぐ生きてくれ、なんて思ってしまうのは、期待になってしまうんだろうか。