庇護雑記

嘘たち

振り払うな、結べ

 

この前友達となんとなく占いに行ったら「あなたがこれからの人生で大切なのは共感と価値の共有」と言われて心当たりがありすぎた。自分の好きなものを人と共有しようという気持ちがあまり起きない。なんていうか、自分が好きなものはあまり周りの人たちにはウケないことが多いしいわゆる流行りのものに興味を示すことが本当にない。ゆえに自分ひとりだけで好きなものをとことん深掘りしまくってきたように思う。

とはいえ好きな文化が展開される場に行けば、その現場で知り合った人と今でも交流があるし、そういう文化の場で出会った人とはおそらく感性が近いだろうからそういった縁は大切にしたいと思っている。だけどあんまり人にそういうことが伝わらない。

他部署で全く仕事上の関わりはないものの、フロアを共有しているためコピー機周辺や給湯室で遭遇する人々の間で「感情がない」とか「アンドロイド」などと言われているということを知った。お笑いが好きなアンドロイドなんて面白すぎるだろ。なぜそう言われていることを知ったかというと、ひょんなことから開かれた飲み会でその他部署の人たちも出席しており、その人たちと初めて言葉を交わす機会が設けられたからだ。わたしは普段通りに喋ったり笑ったりしていただけなのに、彼らはイメージと違ったと言って驚いていた。わたしはそういう誤解を大抵受けているし、知らない間に全然知らない人から評価を落としていることが多い。近寄りがたいとか言われるの結構意味がわからなかった。こんなにフレンドリーに喋れるはずなのに...???

ということを友達に吐露したら「いや、フレンドリーなのは付き合いが長い人にだけだよ」と一蹴された。本当に衝撃的すぎてひっくり返るかと思った。占い師が「淡々としすぎ、人はもっと情感込めて話したりするものよ」と言っていて、それはあたってね〜な〜〜というか話し方なんて占いじゃなくてコールドリーディングじゃん、なんて思っていたのにもしかして本当に当たっていたのか?クールな星ばかり持っているから仕方ないとは言われたけど本当にわたしクールなのかな、確かにホットな人格ではないとは思うけど。熱情とか、持っていてもほとんど表に出てくることがない。

ドロドロした水っぽい感情が苦手だ。水っぽい女というのは結構いるからそういう人に出会うと徹底的に距離を取ってしまう。学生の頃、脈絡もなく突然抱きついてきたりどこへ行くにも手を繋いで行こうとしたりする女子いたじゃないですか。彼女らの行動の生贄になる時、いつも「暑いからやめて」とかなんとか言ってすぐに離れていたんだけどその度にクールだとか冷たい〜とか言われてた。クールなんじゃない、わたしが死に物狂いで築き上げてきた透明な壁を、透明だから見えませんとばかりにこちらに侵入してくることが恐ろしかっただけだ。

けれどもそういう水っぽい女を見ていてすごいな、と思うことがある。彼女らはあらゆる感情に対して受け止める能力が高すぎる。わたしが常に求めている全方位への絶対的距離感が彼女らには皆無だった。どんな怒りも悲しみも一旦引き受けて、相手の感情の温度に近づこうとする姿勢には目を見張った。そんな芸当、わたしには到底真似できないものだった。

日々、朝が巡ってこないことだけを祈り続ける夜を過ごしていた頃にわたしの近くにいた水の女は、ずぶ濡れになってわたしの隣に座ってきた。わたしはその水に濡れるのが嫌で逃げようとすると、彼女はびしょびしょに濡れた手でわたしを掴んで離さなかった。冷たい水に濡れた不快感よりも、その手の温かさの感覚が上回ってしまったわたしは崩れるしかなかった。とんでもない女だと思った。そんなにまっすぐな感情をわたしに放たないでほしかった。いつでもドライに飄々としていたいわたしに、こんな真逆のものを押し付けないでよ。わたしにはそういうものがまるでない、という明確な劣等点をまざまざと見せつけられた気がした。わたしが持たずに生まれたものに救われるのが怖かった。自分の嫌悪に隠されたものの本当の姿が見えたような気がして絶望した。

占い師の言葉で過去の記憶が蘇って、ついに試される時が来たのかもしれないと半ば諦めの気持ちになった。降伏だ。もう逃げられない。生きていくということは人と関わっていくことだ。いい加減、人間の生の感情を受け入れる必要があるんだと思う。危険アラートが鳴り響いたとしてももはやそのアラートを壊さなければならないのかもしれない。とてつもない苦痛と嫌悪が伴うだろうに、そんなこと果たしてわたしにできるんだろうか。

とりあえず第一歩目として、わたしから歩み寄る姿勢を示していければと思う。わたしの好きなものはこれです、この一歩を踏み出してから先のことは考えればいい。

 

 

タピオカ元年

 

職場の目の前にあるでかい商業施設(下は飲食店上は20階分くらいオフィスが入っててめちゃくちゃでかい。でかいビルは怖い。)にお昼をよく食べに行く。こないだもお昼の時間にそのビルに入っている魚系の定食屋に行って鯖のみりん干しを注文し音楽を聴きながらぼーっとみりんで干された鯖が運ばれてくるのを待っていたら人類の敵である小さいgがカウンターの上を散歩していた。この敵とはここ半年の間にこの店で2回遭遇している。1回目は大きく息を吸い込み絶叫しそうになったところをギリギリで食い止め、無言で立ち上がり席を変えてもらったが、今回は脳の血流ががくんとスピードを落とし、この世のすべてを諦めるしかないという心境になった。すべてを諦めつつ、すべてを呪っていた。なにが楽しくてgがわたしの鯖に「ちょっと寄り道」しないようにその動向を監視しながらご飯を食べなくてはならないのか。いままで生きてきてあんなにまずい飯はない。あれが最後であってほしい。あの日わたしは、まさか自分が今日人生最悪の飯を喰らうことになるなんて露も想定していないまま朝に家を出て電車に乗り仕事をしてという日常を遂行していた。人生とは常にサプライズで満ちている。そしてそのサプライズは往々にして安寧をぶち壊しに来やがる。悲劇こそが人生…。

 

職場というのは5万周くらいして面白い。わたしはたぶん無意識のうちに付き合う人を選んできたように思う。しかし職場となるとそうもいかない。そして長年のツケが回ってきたとでも言うかのようにわたしとは全く違う人種のるつぼにわたしは沈められている。でもまあ言い換えればこの環境は忍耐を鍛える場だ。情熱や熱意などといった燃え上がる感情とは縁遠い精神性ではあるものの、忍耐こそが人間を強くするということは悔しいが私も知っている。避け続けた泥臭い感情と対峙しなければならない時がついにきたのかもしれない。残念ながらこれはチャンスだ。逃げない、というチャンスがきっと差し向けられているのだ。これをクリアしたわたしに与えられる褒美とは果たして...?

臨時で会議が開かれることになって、議題もわからぬまま先輩とぷらぷらと会議室に行ってみたらすげえ偉い人が座ってて笑いそうになった。社会性が欠落しているから偉いおっさんが回転椅子にデーンと座ってるの見るとゲラゲラ笑いそうになってしまう。社会不適合みが絶望的なベクトルに爆走している助けてくれ。だって偉そうにしてるのに回転椅子に座っている姿めちゃくちゃ面白いじゃん...どんなに偉くてもわたしが背後に回って背もたれを掴みグルグル走ったとしたらその偉いやつもグルグル回るんだよ、ヤバすぎる。瞬時にそういう妄想がはたらいてしまうので日常生活においても誰にも共感されない地雷が多々存在する。その地雷が突然爆発しやがるたびにわたしが社会的に死ぬ。これもまた忍耐の場における困難・障壁なのかよ、特殊すぎる

 

学生の頃は雨が好きだったし雨音でテンションが上がったりしていたのにここ最近の雨は本当に堪えてしまう。朝起きて雨が降っていると布団まで逆戻りしたくなる。なんていうか東京と雨のコラボレーションが地獄。都市の発展とか進歩とか、そういう希望が全部洗い流されていく感じがする。山形と雨のコラボレーションならいいのか?山形行ったことないけど...

高校生の頃授業中に激しい雷雨がおこると異様なほどテンションが上がっていた。似たように触発される友人もいて、授業が終わるやいなや中庭に激しく打ち付けられる雨粒の観賞をしたり会話の妨害になるほど大きい落雷の音に興奮したり、意味のわからない興奮ポイントを共有してはしゃいだりしていた。だけど今ではきっとそんなポイントは消え失せてしまったであろう

大人になってしまってどうでもいい分別までつくようになって、失いたくない感性を失ったり信じたいものを信じる力を失ったり、できるだけ地面と水平になるように伸ばし棒で価値観を何往復も痛めつけられているうちにえ、人生ってなんなの?これが正しい日本での生き方なの?という漠然とした不満を腹の底で滾らせながら生きている。もう大人なので酒を飲むと記憶がなくなる人の言葉を信じてはいけないとか、本当に信用できる人間にしか人生の話はしてはいけないとか、いくらその人を信用していたとしても人格なんて環境であっという間に形を変えるから永遠なんて存在しないのだということとか、そんなことはもうよくわかりましたバッチリです!って感じだけど失うことに人生の妙味を見出すことだけはしたくない。

私が働く職場のグループにはいま激震が走っていて、ついにトップが降りることになった。トップの座を失うという打撃は関係ないわたしにとっても結構な衝撃である。この人立ち直れるのかなと思うと居たたまれなすぎてしんどい。妙味として開き直るにはキャパが足りなすぎてまだ毒を薬にすることはできない。時代の幕開けと波乱の幕開けはほぼイコールだ。じゃあ大人になったわたしが務めるべき役割は?忍耐の上で上演される舞台は何としても喜劇で幕を下ろしたいんですが。

 

 

賢人の生き方

 

に学ぼうと考えた結果、人と不必要に馴れ合うのは一切やめようという結論に至った。

紆余曲折あり最近誕生した新しい推し(便宜上推しとする)は、人に深入りせず深く興味も持たず、淡々と「善人」というポジションについている。「善人」に徹している推しは、周囲の人々からは優しいだの誠実だの温和だの、その評価は軒並み高いように思える。

ただ本人は自分のことを結構冷たいとかドライだなんて言ってる。いやいや〜そんなことないでしょう〜〜なんて言われてるのを見たけれども、わたしも推しのことは冷たい人だと思った。けれども最近はなんて賢い生き方をしている人だろうと思うようになった。

そもそも生きている上で生まれる悩みの8割くらいが人間関係のもつれによるではないか?と思う。少なくともわたしの場合は大体がそうだったような気がする。ならば完全にわたしにまつわる人間関係のすべてを断ち切ってしまえば悩みからは解放されるのか??といえばそれはそうでもないのが難しいところであって

わたしはきっと他人に対する期待値が高い。〜であるべき、〜すべきではない、という正論を突き通すのが大好きで、正しい行いというものを当然の如く他人にも求めてきたと思う。だってそれがこの世界では正しいことだから。

でもそれは間違いだったと今では思う。たとえどんなに正しいことを要求したとて、人間には感情というものがあるから状況によって正しいことなんて容易く形を変えてしまうからだ。わたしの正しいことだって、わたしの感情によって多少なりともぐにゃりと曲がっているところがあったかもしれない。

人に期待するのはやめよう、と思った。人生には諦めが肝心だ。諦めを重ねて、許せないのハードルを下げて下げて下げまくった先に穏やかな人格があるのかもしれない。冷たいなぁと思った推しだって、もしかしたら若い頃はわたしのように他人に振り回されたり毒物を注射されてのたうちまわった挙句にいまのスタンスに落ち着いたのかもしれない。人と自分は違うのだから、分かり合えない部分があって当たり前だ。わからせようなんて思う時点でそれはもう驕りなのだ。

わたしも推しみたいに賢くなりたい。誰にも振り回されずに生きてるのカッコいい。これはただの偶然だが、推しの名前には「賢」という字が入っている。名は体を表すを体現しやがって...

推しから学ぶことがあるというのは嬉しい。推し甲斐がありすぎる。好きです推し。だからまずは、推しに対して期待をすることからやめなければならない。あなたはあなたのまま、何事にもぶれずにそのまま真っ直ぐ生きてくれ、なんて思ってしまうのは、期待になってしまうんだろうか。

 

書を捨てよ町を喰らえ

 

職場のヤバい男に気にいられるという事故が起きる確率があまりにも高すぎる。まじで納得がいかない。こんなもんただただ理不尽じゃねえか。脳内では「気持ちわりーんだよ、死ね」と直接言うシュミレーションが幾度となく行われている。いまは脳内でとどめていられるが、いつ口からそのまま出ていくかはわからない。もはやその時はその時で、どうでもいいやという気持ちもある。逆にもう言ってみたい。言った後に漂う激ヤバな雰囲気と凍りついた同じ部署の人々の顔を想像するといろんな意味でゾクゾクする、最高かよ。絶望的だろう、その絶望をわたしは見せつけるだけの力があるんだ

たまに取り返しのつかないことをやってみたくなる時がある。自分が台風の目になって、徹底的にすべてをぶち壊したくなる。これがわたしの中に眠って時折顔を出す、破壊衝動というやつか。趣味ではあるものの、西洋占星術の知識がついてきたのでそういう時は「あ〜〜わたしの12ハウス火星が暴れてる...」と客観視することでなんとか昇華させている

とはいえ一方的に餌食になるとかメチャクチャに納得がいかないのでわざと全ての人間に愛想を振りまいたり即席で作った不思議ちゃんキャラ()を演じてみたりもする、それはそれでハチャメチャに疲弊するし素に戻った時の自虐衝動が凄まじくてこれまた精神の消耗が激しい。どうしたらいい、なにが正解だ。お前の正解とわたしの正解は同じではない、お前の正解なんかいらない。わたしだけの正解しか今はいらない、そんな顔でわたしのこと見ないで

それにしてもこの世の中自分の気持ちで頭がいっぱいな人間が多すぎませんか。いちいち色んなことに気を遣っていることが本当にアホらしく思えてくる。猛獣に手足をじわじわ食われているような苦痛だ。そんな目に遭ってもなお黙ってエサでいろというのか。結局この世界において若い女なんてエサ以外の何物でもないですよね。知ってますだからこんなにもすべてを壊したい、傷つけられた分の倍は傷つけ返したい。こういう奴らは私の屍の上で陽気に歌でも歌うのだ。ブルースなんか歌われた日にゃ、わたしの破壊衝動は抑えられない

 

 

S a B

 

思えばもう2018年が終わるじゃないか。私にとってのスクラップアンドビルドが行われまくった1年だった。あれほど何かを失うことは怖いと思っていたはずなのに、それこそ取るに足らないものですら何ひとつこぼさぬようにと思っていたはずなのに、案外あっさりと手放し壊し消し去った。

向かいの交差点でひっそりと営業を続けていたタバコ屋がいつのまにか取り壊され、年明けからコンビニに生まれ変わるそうだ。壊されて更地になったところに新しく創造されるものがあるのは古今東西どこでも同じことだ。

新しい人間たちに取り囲まれたわたしは初めて客観的な目を得た気がした。彼らの眼に映るわたしがどのような造形をしているか、ということに対して、どうやらわたしはずっとねじ曲がった考えを持っていたみたいだった。認められたかったことを少し認められた。ほしかったもののいくつかを手に入れた。恒久的ではないにしろ、わたしはそこそこに満足している。なぜなら恒久的ではないということに対しての納得がいっているからだ。

 

けれどももっとほしいものがある、絶対に掴みたいものがある。曲げられないものは曲げられない、そうやって生きてきたし、生きてこれた。わたしは変わらずに生きていく。最近はちょっと貪欲になってきた。ほしいものはどんな手を使ってでも手に入れたい。どれだけの努力を必要とするかなんて分からないけれども、意外とわたしは好きなものに対する努力は苦にならないようだった。隣にはスフィンクスが眠っている。スフィンクスを筆頭とする愛おしい存在のために、とりあえず明日も生命の活動を続けていく。

 

 

渓谷

 

毎週何かしらの入稿があってなんなんだこのスケジュール??と憤慨したりマウンティング女にマウントふっかけられてこれまたブチ切れ申したり、という日々を送っているんだけど同じ部署の同い年の子とランチに行ったら全く同じ不満で怒りを爆発させていたので笑ったしなんかちょっと仲良くなれた。

好きのベクトルよりも嫌いのベクトルが近い人の方が距離が近づきやすくなった。それはきっかり社会人になった頃からだと思う。それがいいかとか悪いかとかなんて現時点では決めたくないと思っている。

仕事でしか繋がっていない人と情緒的な交流をして、凹凸が噛み合う瞬間が好きだ。その窪みがどんなに痛かろうが苦かろうがわたしには関係なくて、プラマイで繋がれた時点でもう奇跡が成立している。奇跡の狭間には風が吹き、水が流れ、小さな命が芽吹くだろう。これもまた運命、好きな人も嫌いな人もみんなみんなわたしの運命とわたしが作り上げた世界の一つなのだ。

 

一度嫌いになると徹底的に嫌いになってしまう、だけどたまに嫌いの値がふっと浮き上がってゼロからプラスの値をさまようことがある。沈んで、再び浮き上がる姿は不死鳥みたいだと思った。不死鳥のきみのことは、わたしはずっと、本当は好きなんだとおもう、きっと。だから安心してほしいんだ。

 

 

クレイジーサマーソルト

 

 

理不尽に対する怒りとかは生き生きと存在してるんだけど、明らかに病み要素が自分から激減してしまった。良いことなんだけど、望んでたことなんだけど、やっぱり衝動がないと納得のいくアウトプットが出来ない。なんて諸刃の剣なの

激しくても感情の波があったほうがそれこそ波に乗れるんだなぁ、でも昔には戻りたくないとも思うよね、、価値観がゼロ100の悪影響がこういう形でまた浮き彫りになってる

 

でも嫌悪の感情はもうちょっと薄まってほしい